【動画制作|吉田康介】「助けて」と言えなかった。「人をつなぐ映像屋」が気づいた、人との向き合い方

SNS運用や企業PRなど動画周りの制作を幅広く手がける吉田康介さん。チームでさまざまな案件に対応しながら、撮影前の調整から現場での橋渡しまで担う「人をつなぐ映像屋」として活動しています。

もともとは父親の職業への憧れから消防士になった吉田さん。火災や救急の現場で活躍する一方で、組織の空気や人間関係に苦しみ、心身のバランスを崩します。その後、家族を支えながら自分が主導権を持てる働き方を選び、起業を決意。何のスキルもない状態でUBM(※)に入会しました。

北原孝彦さんの言葉を受けながら事業を模索。1年半ほどで月商100万円に到達する一方で、その後は売上の急落も経験。そこから人との関係を見つめ直し、事業との向き合い方を変えていきました。吉田さんがこれから広げていきたい「助けられる人の半径」とはなにか、話を伺いました。

※UBM(ビジネス行動管理大学):北原孝彦が代表を務めるビジネス塾。2020年に「北原の精神と時の部屋」として設立、2024年11月に現名称に改称。

動画制作からPRまで 「人をつなぐ映像屋」の仕事

――まず、吉田さんの事業内容についてお聞きしたいです。

基本的には動画全般を担当しています。YouTubeやTikTok、Instagramの運用、イベント撮影、企業PR、ホームページ制作まで、チームで幅広く対応しています。「映画以外なら何でもできます。お任せください!」という感じです。

――吉田さんならではの強みはどこにありますか。

強みは、現場でのコミュニケーションを率先して担うところだと思っています。撮影でお店を借りる場合も、店主と依頼者さんの間に入って、許可取りから当日の進行調整まで担います。僕がいることで関係者同士が自然につながり、撮影もその後のやりとりもスムーズになる。自分では「仕事が始まる前から人と人をつなぐ映像屋」だと思っています。

また、相手に必要なことを率直に伝えるのも特徴かもしれません。ダメなことはダメ、必要なことは必要だと伝える。よくお客さんからは「熱苦しい人」と言われます(笑)。ただ、そういう熱さを好きだと言ってくれる人もいて、クライアントさんのなかには僕が住む神戸まで会いに来てくれたり、そのまま僕の自宅に泊まっていったりする方もいます。

――イベント撮影では、どんなものを撮っているのでしょうか。

昨年の2025年の例でいうと、ダンスイベントを撮影しました。僕が事業で大事にしているのは「輝ける大人がいるから、夢を持てる子どもがいる」ということです。一緒にイベントをやろうと言ってくださった方たちは、次世代に文化を継承することを真剣に考えている方たちで、僕も感銘を受けました。当日は、子どものダンサーたちが舞台で踊り、関係者や来場者を含めて1500人ほどが集まりました。

また、明石の林崎松江海岸で「海のアトリエ」という、子どもたちが自由に絵を描くイベントの撮影も行いました。白い紙の枠のなかに収めるのではなく、「はみ出してもいいじゃん。好きなように描きなよ」という場を作ったんです。

ウエディングをテーマにしたファッションショー「THE WEDDING CROWN」では、撮影を担当させていただきました。事前の準備から当日まで一貫して関わっています。

――PR動画では、どのようなものを作っているのでしょうか。

シネマティックな映像で会社の歴史を振り返る動画や、芸人さんを起用した動画もあります。たとえば、ネジを製作している工場のPR動画では、芸人さんに会社のなかを回ってもらい、「この会社でネジが使われているところはどこでしょう」と探していく内容にしました。構成はプロの作家さんと一緒に考えていて、キャスティングも予算に応じて対応できます。

――クライアントさんの成果を教えてください。

初期に関わらせていただいたコーヒーショップさんでは、1年半ほどでYouTubeからの売上が年間300万円ほどアップしました。

また、イベント関連では、私たちが制作したイベント動画をクライアントさんが協賛候補の方にお見せしたことで、数百万円規模の協賛を集められた例もあります。映像があることで、イベントの価値が相手に伝わりやすくなるんです。私たちはあくまで映像制作を担い、協賛の獲得自体はクライアントさんご自身が進められています。 

――素晴らしいですね!

その他の活動として、大阪のフォトスタジオ「studio群蒼」とも深く関わっています。もともとは写真を中心に活動されていたスタジオなのですが、そこに僕が加わることで、動画案件の進行管理から新規獲得、さらにスタッフへの撮影技術の指導まで担い、写真だけでなく動画も強みにできる体制づくりを進めています。 

憧れだった消防士。でも、現実は……

――動画制作に進む前は、どのような道を歩んできたのでしょうか。

父親が消防士だったこともあり、小学生の頃から消防士になるのが夢だったんです。ただ、高校卒業のタイミングではまだ学力が足りず、父親に促されて、まずは自衛隊に入りました。

そこで同室になった同い年の子が「消防の道に進みたい」と話していて、その子は1年で辞めて、専門学校に通ってすぐに消防士になったんです。それを聞いて「先を越された」と思い、僕も次の年に自衛隊を辞めて専門学校に通いました。1年目は試験に落ちてフリーターを経験し、次の年に合格。24歳になる年に消防士になりました。

――憧れていた消防士の仕事はどうでしたか。

理想と現実のギャップは大きかったです。思っているほど現場は多くありませんし、ドラマのように毎回火事が起きるわけでもありません。ただ、本当にひどい火事は、勤めていた9年間で2〜3回経験しました。完全に燃え盛る現場に入ることもありましたし、なかなか火が消えず夜の11時頃から朝の5時頃までかかったこともありました。

あと父親は消防士であり、救急救命士でもあったので、僕も救急に関わりたいと思っていました。僕が勤めていたところでは、救命士の資格がなくても隊員として救急車に乗ることができたので、実際に現場へ出るようになりました。

――救急の現場では、どのような大変さがありましたか。

精神的な負荷が大きかったです。119番が入れば、基本的にはどこへでも行きます。お店や家のなか、路上で倒れている人のもとへ向かうこともあって。また電話をかけてくる人もさまざまで、本当にしんどい人もいれば、寂しくて呼ぶおばあちゃんもいました。

ただ、それ以上に負担が大きかったのは、人間関係や組織の空気で……。年数を重ねるうちに、公務員組織の閉鎖的な部分や、上から押さえつけるような空気に違和感を覚えるようになって。9年間かけて少しずつ「このままでは続けられない」と感じるようになり、気がつけばうつ病になっていました。

病院で「うつです」と言われた瞬間は、「やっぱり病気だったんだ」と少しホッとしました。でも、診断されてからは家から出られず、シャッターも全部下ろしたまま、部屋のなかにいる日々が続きました。子どもは1歳ほどで、家族を支えなければいけない。でも、組織に戻れば、また同じ状況になるかもしれない。だったら、自分が主導権を持てる働き方をしようと思ったんです。

子どもの動画を残したい。何もない状態から月商100万円へ 

――その頃に起業をしようと考えたと。

そうです。それで勉強しようと起業家育成の発信をいろいろ見ました。そのなかで、北原さんのYouTubeに出会って。自衛隊や消防士の世界では、理不尽に怒られることもあったのですが、北原さんの言葉は違って聞こえました。厳しいことを言っていても、その人のために伝えてくれていると感じられたんです。

また、北原さんは「100万円は3年あれば誰でも稼げる」と話していました。それを聞いて、まだ本格的に事業を始める前で、何もない状態でしたが、UBMに入会しました。

――最初は、何をしようとしていたのですか。

公務員試験の勉強を教えようとしていました。自分が消防士になるために勉強してきた経験があったので、それを商品にしようと思ったんです。ただ入会して3カ月ほど経った頃に、北原さんから「今考えている商品でない方がいい」と言われて。そこから、別の方向を考えた方がいいという話になったんです。

――そこから動画編集の道へ進んでいったのはなぜですか。

きっかけは、子どもの動画を0歳から20歳まで残してあげたいと思ったことです。父親が、僕の0歳から20歳までの写真をUSBに入れて渡してくれたんです。「康介0歳」「康介5歳」みたいにフォルダ名がつけられていました。

僕に子どもが生まれたタイミングで、「今なら、この写真を受け取る嬉しさが分かるだろう」と思ったみたいです。それを受け取って、自分も子どもに同じようなものを残したいと思いました。

ただ、自分の場合は写真ではなく、動画で残したかったんです。そこから動画編集を独学で学び始めました。同じ時期に、たまたま知り合いのコーヒーショップがYouTubeの編集者を募集していて、モニターでもよければということで、担当させてもらえることになりました。そこから動画編集の道に進んでいった感じです。

――その後、事業はどのように広がっていったのでしょうか。

当時は、合宿で他の受講生が北原さんと壁打ちしている内容を聞きながら、みんなが何を考え、どう行動しているのかを全部メモしていました。ただ、それをそのまま真似するのではなく、自分なら何ができるかを考え、行動に移していったんです。

その頃から、Instagramの運用代行なども少しずつ入ってきました。退職金が100万円から200万円ほどあったので、半年から1年ほどは生活できると思っていて。だから、売上が立ち始めた仕事は外注し、自分はなるべく人に会うことを重視しました。結果、お客さんが増えていき、1年半ほどで月商100万円に到達しました。

――月商100万円を達成したときは、北原さんに報告したのですか。

はい。大阪合宿にて、「北原さんのおかげで100万円いきました」と報告しました。実は、北原さんと直接話したのはそのときが初めてでしたが、北原さんは「今までしんどそうだったよね」と言ってくださり、以前から様子を見てくださっていたのだと感じました。

「助けて」と言えなかった 売上が落ちて気づいた、積み上げる大切さ

――月商100万円を達成してからは、売り上げは右肩上がりだったのでしょうか。

いいえ、一度売り上げが落ちました。北原さんにも指摘されたのですが、当時の僕は「人を積み上げる」ことができていなかったんです。 新規のお客さんを取りに行っていても、半年や1年で終わることがほとんどでした。その結果、一時期は月150万円ほど稼げていたのに、ある月を境に「月20万円しか稼げていない」という状況になってしまったんです。

――そこから、何を変えたのでしょうか。

人との接し方を変えました。具体的にはお客さんを家族や友達だと思うようにしました。たとえば、奥さんとの喧嘩の話など、自分の事もお客さんにさらけ出すようにしたんです。

人との接し方はできていたつもりではあったのですが、現状を北原さんに相談した際に「もっとちゃんと自分のことを出しなさい」「体裁を気にしている」と言われて。最初はその自覚がありませんでしたが、振り返ると公務員として12年働くなかで、弱さを見せない振る舞いが染みついていたのだと思います。

――弱さを見せない振る舞い、とは?

救急や消防、自衛隊でもそうですが、人を助ける立場の人間が自信なさそうにしてはいけないんです。たとえ内心は不安でも、「僕が来たからもう大丈夫ですよ」と言い切らないといけない。この姿勢は事業でも役に立つ部分があって、まず「できます」と言ってから、血眼になってできる人を探す、という動き方ができるんです。

ただ、その裏返しで、自分が本当に助けてほしいときに「助けて」と言えなくなっていました。北原さんからは「僕のことを家族だと思いなさい」と言われていて。家族なら、どんな悩みでも相談するはずだと。もし限界を迎える前に「今きついんです」と打ち明けられていたら、北原さんも仕事を回してくれたかもしれません。でも、それができず、体裁ばかり気にしている。そんな僕を見て、北原さんは「吉田さんは人を積み上げられない」と言ったのだと思っています。

――そこから、行動は変わりましたか。

変わりました。今つながっている人たちに、自分から「今度飲みに行きませんか?」と誘うようになったんです。すると、みんな喜んでくれて。なかには「岡山県からでも行きます」と、わざわざ県外から神戸市まで来てくれる人もいました。そこで初めて、僕が会いたいと言えば、仕事と関係なく会ってくれる人たちだったんだと気づいたんです。

一緒にお酒を飲むときも、以前なら「仕事の人だから」と気を張っていました。でも、「もういいや。家族だし」と思って話すようになってからは、病気のことやしんどかった時期のことも話せるようになって。お客さんから「そこまで話してくれて嬉しい」と受け止めてもらえたこともあり、言ってよかったと思いました。

――その関係性の変化は、事業にどのような影響がありましたか。

今のお客さんは、成果が出ている方ももちろんいます。でも、もし数字が出ていなかったとしても、僕とつながりたいから月謝を払ってくださる方もいます。あと撮影もしますが、撮影後のトークで1時間、2時間話すこともあって。そこに時間を使ってくださる方もいるんです。そういう積み重ねがあって、今は最高月商400万円を見込めるところまで積み上がっています。

助けられる人の半径を広げ、子どもたちに夢を届けたい

――北原孝彦アカデミー(※)(以下、アカデミー)に入って、一番変わったことは何ですか。

事業に対する姿勢かもしれません。アカデミーには、北原さんに「入りなよ」と誘っていただき、候補生ではなくアカデミー生として参加しました。当時は、事業的にも精神的にも苦しい時期でした。そのなかで北原さんは、事業の進め方だけでなく、習慣や徳の積み方、人との接し方を教えてくれました。

アカデミーは、人として成長する場所であり、自分の考え方の甘さに気づく場所だと感じていて。30代を過ぎると、自分のために本気で怒ってくれる人はなかなかいません。だから、そういう環境があることは本当に大きいです。

※北原孝彦アカデミー:UBM(ビジネス行動管理大学)の学びをベースにしながら、北原孝彦のより近くで学ぶ区画。北原氏が直接指導にあたる。メンバーは経営スキルだけでなく、人としての在り方を学ぶ。

――アカデミーのなかで、関係の深い方はいますか。

今は、神原さおりさん、大浦地倖成さん、福島マナヤさんです。神原さんとは、アカデミー勉強会に初めて参加した日に隣に座ったことがきっかけで、そこから話すようになりました。今では事業の相談だけでなく、家族の話もよくするほど仲良しです。

大浦地さんとはUBM時代からつながりがあり、動画撮影、補助金の相談などの話をする仲です。福島さんとは、UBMの大阪支部会や兵庫支部会での縁もあり、地域でつながりがあります。アカデミーに入ってからは、こうした人との関係が少しずつ仕事にも広がっていると感じています。

――これから、吉田さんはどのようなことを実現していきたいですか。

起業家として活動していきたいです。自分の人生をかけて、助けられる人の半径を広げていきたいんです。売上の規模が大きくなれば、できることも増える。人脈が広がれば、関わる人も増える。自分自身の器が広がれば、受け止められるものも増えていく。今は、そのための種まきをしているところです。

最近では、子ども食堂をまとめるようなイベントができないか、という相談もありました。そうした話が少しずつ入ってくるようになり、自分が活動の幅を広げていくことが、子どもたちを支える力にもなり得るのだと感じています。

――先ほど話していた 事業コンセプト「輝ける大人がいるから、夢を持てる子どもがいる」という言葉が軸にあるのでしょうね。

そうですね。僕自身は、父に憧れて消防士を目指しました。今度は自分が、子どもたちにとって「世界は素敵だ」と思える大人でありたいです。

その一つとして、映像会社として映画を撮りたいと考えています。第一線で活躍する俳優を起用し、子どもたちが未来に希望を持てるような作品を作りたい。そのためにも、今は売上も、人脈も、人としての器も広げていきたいです。そして最終的には、応援してくださる方たちと協賛を集めながら、子どもたちに届く映画を撮れたら最高だと思っています。


取材を終えて

「僕がいれば大丈夫ですよ!」と堂々と言い切る、それはプロ意識の表れでカッコいい。消防士なら、そうあってほしいと思います。でも、事業をするなら、常に強いところを見せるだけではダメなのですね。吉田さんのお話に、はっとさせられました。

強さの鎧を脱いで弱さをさらけ出すのは、想像以上に勇気がいること。それでも吉田さんは殻を破り、本音で人と向き合えるようになっていきました。人はいつからでも変われる、そして考え方が変わると現実が変わる。学びの多い取材でした。

(記事制作:ひとひら企画/インタビュアー:渡辺まりこ、人生の軌跡グラフ制作:Emodea・相場綾香)

※掲載情報は2026年6月現在のものです。最新情報は公式サイト等をご確認ください。