【皮膚の臨床試験|岡村愛】累積4万症例。臨床試験の実績だけでは見えなかった「経営者」の視点とは
化粧品における皮膚の臨床試験を手がける株式会社うゆる代表取締役の岡村愛さん。東京を拠点にしながら、月2回ほど故郷の熊本県を訪れ、被験者にパッチテストなどを行っています。これまでに携わった臨床試験は、累積4万症例。リピーターが多いという岡村さんの原点となるのは、祖父母が営んでいた薬局でした。困った人に手を差し伸べ、利他的な心を持つ祖父母の背中を、今も追い求めています。
独立後、売り上げがゼロの月もあったという岡村さんは、北原孝彦さんの考え方に触れることで、売り上げが伸び、考え方も変わったといいます。どのような学びを得てきたのか、これまでの歩みとともに聞きました。
被験者のもとに足を運び、最短1週間で結果を届ける臨床試験

――まず、現在の事業について教えてください。
化粧品メーカーさんから依頼を受けて、「皮膚の臨床試験」をしています。臨床試験は、パッチテストとスティンギングテストが中心です。
パッチテストとは、化粧品を染み込ませたシールを背中などに貼り、かぶれやアレルギー反応が出ないかを見る試験です。
スティンギングテストは、塗ったときのピリピリやチクチクといった、感覚的な刺激を確認するものです。こうして得られた結果をデータとしてメーカーさんにお返しします。そのデータは商品の訴求にも使われ、「パッチテスト済み」「低刺激」などと表示する際の根拠になります。
最近では、フェムケアの試験も実施しています。ある依頼でスティンギングテストを頬で行った後、実はデリケートゾーン用の石鹸だったと知ったんです。刺激感は実際に使用する部位で評価すべきだと思い、デリケートゾーンでテストができるよう、産婦人科の専門医にも協力を求めて仕組みを整えました。
――実際の試験は、どんなふうに進めているんですか?
一般的な臨床試験は、被験者に施設まで来てもらって試験を実施することが多いのですが、当社は私が被験者さんのもとに出向きます。熊本県内の就労支援施設や介護施設、保育園、美容室など、協力してくださる施設を車で回り、被験者となるスタッフさんの休憩時間などに試験を実施しているんです。
一つの施設で数人ずつ実施し、近隣の施設を5〜10分ほどで移動しながら回るので、効率よくたくさんのデータを集められます。さらに試験日を月2回ほど設けているので、化粧品メーカーさんから依頼を受けてから、最短1週間で結果をお返しできます。他の臨床試験機関では、依頼から結果が出るまで1カ月ほどかかるケースもあるので、スピーディーに検査結果を出せるのが当社の強みです。

――現場もチームで回っているのかと思ったら、岡村さん一人なんですね。
はい、現場は全部私一人なんです。被験者さんへの対応も、試験後の肌の写真撮影も私が行います。一人で担当することで評価の軸がぶれにくいというメリットがあります。
一方で、資料作成といったバックオフィス業務はスタッフに任せていて。リモートで働くママさんも多く、子どもを寝かしつけた後にデータを確認してくれることもあります。そうした柔軟な働き方も、結果を早く返せる理由の一つですね。
――臨床試験の実績数は、どれぐらいでしょうか?
臨床試験は10年ほど続けていて、累積では約4万症例になります。パッチテストでは同じ方の皮膚を3日間確認することもあるため、例えば20人に3日間ご協力いただいた場合は、延べ60症例としてカウントしています。
町の薬局を営む祖父母から受け継いだ、利他的な精神

――ここからは、岡村さんのこれまでのお話を伺います。子どもの頃はどのようなお子さんでしたか?
子どもの頃から、アトピーがあって。寝ている間にかきむしってしまい、朝起きると爪や体に血がついてることも珍しくありませんでした。でも、生まれたときからそうだったので、自分では「辛いこと」とは感じていなかったんですよ。母から「むげーこつやな(かわいそうだな)」とよく言われて。私は「そうなのかな?」という程度の感覚でした(笑)。
――アトピーがあったから、今の仕事についたんですか?
いいえ。アトピーだったから今の仕事を選んだ、というわけではなくて。小さい頃は歯医者さんになりたかったんです。憧れていた歯医者さんがいました。本田歯科の本田信子先生です。
本田先生は、治療中ずっと「痛くない?大丈夫?」と声をかけてくれて。子どもの自分にも、ちゃんと説明してくださいました。本当に優しくて、「この先生みたいになりたい」と思っていました。
実は今、オーラルケア商品の臨床試験を、本田先生に監修していただいています。昔憧れていた先生と仕事をご一緒しているなんて、不思議ですよね。
――とても素敵なご縁ですね!人に寄り添う姿勢は今の仕事にも活かされているように思います。
そういう意味では、祖父母から受けた影響も大きいのかもしれません。母方の祖父が薬剤師で、祖母と二人で町の小さな薬局を営んでいました。祖父が「薬学をもって地域に貢献するんだ」と言い続けていたことを、今でも覚えています。

薬局に来る人って、お薬を買いに来るだけじゃないんですよ。店番をしている祖母のもとに町の人が訪ねてきて、お茶を飲んで、おやつを食べて、人生相談をして帰っていくんです。なのに、ちゃんとお薬も買っていくんですよ。
お正月でも「開けてほしい」と言われれば薬局を開けるような祖父母でした。「困っている人がいたら、助けてあげなさい。最終的に返ってくるから。でも、期待してはだめだよ」って。お祭りのときには、親戚のお店でちらし寿司をたくさん買って、近所に配っていましたね。地域のなかで人もお金も巡るようなことを、祖父母は感覚的に実践していたんだと思います。
このような環境で育ったので、「困っているなら何かする」という感覚が自然と身についたのかもしれません。今、施設を訪問して、いろいろなお話を聞いて、お肌の相談を受けながらパッチテストをしているのも、祖母が薬局でしていたことと近い気がしています。
「大卒の優秀な子はいらない」。就職でつまずき、23歳で研究の世界へ

――「歯医者になりたかった」とおっしゃっていましたが、大学では医療系の分野を目指したのでしょうか?
それが、全然違って。大学では理工学部で化学を学びました。22歳で卒業し、現場監督になりたいと思って名古屋の電気設備関係の会社に就職しました。現場監督そのものより、社長さんの考え方にひかれて「この人のもとで働きたい」と思ったのが大きかったですね。
ただ、リーマンショックの影響で会社が傾いてしまったので、入社して1年も経たずに辞めることに。その後が、私のなかでは一番しんどかったです。
――何があったんですか。
仕事が決まらなかったんですよ。熊本に戻って仕事を探したんですが、最初の会社を短期間で辞めているので、「またすぐ辞めるんじゃないか」と見られてしまって。ある会社では、「大卒の優秀な子はいりません。お茶くみをしてくれる女の子が欲しい」というようなことを言われました。「私は何のために大学へ行ったんだろう」と、ショックを受けました。
そこで、「何か技術を身につけよう」と決意し、大学の研究室で働ける仕事を探しました。お金をもらいながら勉強させてもらおうと思ったんです。
それで、23歳頃から熊本大学医学部の研究室でテクニシャンとして働き始めました。テクニシャンとは、教授の指示に基づいて、実験の準備やデータ採取などのサポートをする技術職で、時給1100円のパートでした。
――研究室では、具体的にどんな仕事をしていたのでしょうか?
肝臓の研究をしている、発生学の研究室に配属されました。そこで私が担当したのは、顕微鏡で細胞を見ながら肝臓になる組織だけを細い針で摘出して培養する作業で、非常に繊細さが求められました。

大学で専攻していたのは化学だったので、生物学のことはまったく分からず、研究室で働き始めてから、徐々に理解していった感じです。仕事は楽しかったですし、様々な技術を身につけることができました。とはいえ、給料は低いまま。「これは、東京に行かないとお金が貯まらないな」と思い始めました。
それで副業をしながら上京資金を貯め、東京で働くことを目指して就職活動を開始。「一生の仕事として成し遂げられる仕事を見つけたい」という思いで100社ほど受けて、吟味した末に、2016年に東京の化粧品臨床試験会社へ入社しました。
疲弊しない組織を作るため、社内ベンチャーで事業構築

――化粧品の臨床試験会社では、どんな経験をしたのでしょうか。
最初に任されたのが、日焼け止めのSPFを測定するプロジェクトの立ち上げでした。それに伴って300名ほどのデータを集めたところ、「論文書いてみたら?」とアドバイスを受け、論文執筆や学会発表も経験しました。
臨床試験の仕事はすごく好きでした。やりがいがあったし、充実もしていた。ただ、多忙な職場でしたので、周囲には疲弊している社員も見受けられました。この状況を変えなくてはと思い、「こういう部署を作ったら、みんなが楽になるのでは」と会社に提案したら、「じゃあ自分で作ってみたら?」と言ってもらえたんです。
それで2018年、社内ベンチャーのような形で事業を始めました。最初は、人を対象にした研究を客観的に審査する倫理審査の事業です。
――そこから、今のパッチテスト事業へどうつながったんですか。
倫理審査の事業で利益が貯まってきたときに、当時の代表から「化粧品を作ってみたら?」と言われて、化粧品販売にも挑戦しました。でも、全然ノウハウがなくて、思うように売れなかったんです。
それで広告費を捻出するために、「自分がすぐできて、売り上げになることは何だろう」と考えて始めたのがパッチテストでした。すると、そちらに需要があったんです。そのなかで、小規模な事業者でも利用しやすい臨床試験が必要だと気づきました。

――そこから、どうして独立することになったのでしょうか?
きっかけの一つは、俳優をしている夫でした。オーディションや稽古で忙しい夫を支えながら、私が会社員を続けるのは難しいと感じるようになって。夫には俳優を続けてほしかったので、「だったら私が時間を調整できる働き方に変わればいい」と考えて、2023年4月に独立開業しました。

売り上げゼロの月も。経営に悩むなかで出会った北原孝彦氏の動画
――独立してみて、実際はどうでしたか?
最初は「いける」と思っていましたが、実際はそんなにうまくはいきませんでした。大きな売り上げがドンと入った翌月はゼロ、みたいなこともあって。それで経営を学ぼうとYouTubeを開いたとき、北原さんの「この1本でビジネスの全てが理解できる秘密のノウハウを大公開!」という動画が出てきました。
それを見て「この人、私が解決できなかったことを簡単に言っている」と衝撃を受けました。それから北原さんの動画を、1カ月で100時間ほど見ました。それで言われていることを片っ端から実践したら、月100万円ほどの売り上げが続くようになってきたんです。「これはお礼を言いに行かなきゃ」と思い、2023年12月に北原さんに会いに行って、当時の「北原の精神と時の部屋」(※)へ入り、2024年3月末には弟子区画(※)にも入りました。
※北原の精神と時の部屋:北原孝彦が代表を務めるビジネス塾。2020年に設立し、2024年11月にUBM(ビジネス行動管理大学)に改称。
※弟子区画:「3年間は挑戦から逃げない」と北原孝彦と約束した人が参加する。毎月の月報提出に加え、弟子合宿では全員が活動報告を行う。現在は募集を終了している。
――北原さんから学び始めてから、自分自身にどんな課題を感じるようになりましたか。
「一人で仕事をしている」という感覚が強くて、経営者というより個人事業主っぽさが抜けなかった。2024年6月頃の弟子合宿で、北原さんから「生き方を変えなきゃ変わらない」というようなことを言われました。「人との向き合い方がその程度だから、その程度の関係しか結べていないんでしょ」とも言われて。
ものすごく悔しかったんですよ。自分では、人に寄り添っているつもりだったので。「まだ小手先だったんだ」と思いました。

――「寄り添っているつもりだった」というのは、具体的にはどういうことでしょう。
私は、優しく接すること、何でも話を聞くことが「寄り添うこと」だと思っていました。でも、それは自分から見た寄り添いだったんです。相手からしたら必要なかったかもしれない。それは、ただ自分がやりたかっただけなんじゃないかって。優しい言葉をかけることだけが、その人にとっての優しさとは限らないと考えるようになりました。その意味をもっと理解したくて、北原孝彦アカデミー(※)(以下、アカデミー)でも学んでいます。

※北原孝彦アカデミー:UBM(ビジネス行動管理大学)の学びをベースにしながら、北原孝彦のより近くで学ぶ区画。北原氏が直接指導にあたる。メンバーは経営スキルだけでなく、人としての在り方を学ぶ。
――その考え方は、実際の仕事にどう生かしているのでしょうか。
例えば、スタッフとの関わり方を変えました。以前は「何でも聞くよ」というサークルの先輩みたいな感じだったんです。そうすると、必要のない愚痴や不満まで全部上がってくる。それが本当に組織にとっていいのかなと思うようになって。それで今は、わざわざ聞きに行くのをやめました。もし仕事でネガティブなことが起きたら、件数と事実だけを報告してもらう。そして週に1回、そのための時間を設けて、30分で解決策を考える。改善しなかったら次の方法を考えます。
するとスタッフも、不満そのものより「じゃあどうする?」に意識が向き、質問から回答までのスピードも上がりました。相手の状況や背景によって、自分の出力を変えないといけないんですね。最近ようやく、その解像度が上がってきた感覚があります。
「レイヤーがまだ低い」で広がった視点
――2025年11月に出演したYouTube「救済企画」では、北原さんから「既存のお客様への勉強会をしなさい」と言われ、他社と知識を共有する利他的な視点の大切さに気づいたそうですね。ほかに、今の岡村さんの考え方に影響している学びはありますか?
「レイヤー」の考え方です。以前、北原さんから「レイヤーがまだ低い」と言われたことがあって、最近ようやく感覚が分かってきました。
北原さんが例に出したのがタクシーです。タクシーに乗る場面で、「タクシー代を払える自分でよかった」と思うのも一つの見方。でも、もう一段レイヤーを上げると、「公共の乗り物に乗ってくださっている人がいるから、今、自分はタクシーに乗れている」と考えるようになると。目の前の自分だけでなく、もっと広く見るという話です。
私は今まで、特別な施策をしないと事業は広がらないと思っていました。でも今は、手持ちのものはすでにそろっていて、自分が気づいていないだけなんじゃないかと思っています。人とのつながりや技術、仕組みも、見るレイヤーを変えれば別の価値につながる。少しずつ、そう思えるようになってきました。
――そんな今、改めてこれから実現したいことを聞かせてください。
小さい頃からずっと変わっていないのが、「女性が楽しく働ける環境を作りたい」ということです。なぜだろうと自分でも考えたんですけど、たぶん母なんですよね。私が育ったところはかなり田舎で、母は近くに働ける場所がなかったこともあって専業主婦になりました。そんな母を見ていて、子どもの頃から「しんどそうだな」となんとなく感じていたんです。
でも今、私がパッチテストで関わっている施設とのつながりをきっかけに、母が70歳になって仕事を始めたんですよ。そうしたら、「今が一番楽しい」って言うんです。「社会に求められたい」って。
自分がこの仕事をしていたことで、母が「楽しい」と思える仕事にたどり着けた。それは、この仕事をしていてよかったと思えることの一つですね。だから、規模が大きいか小さいかは、私にとってはそこまで重要じゃないんです。「岡村さんでもできるなら、私もできるかも」と思ってくれる人が増えることでもいいなと思っています。
取材を終えて
「困っている人がいたら助けてあげなさい。でも、期待してはだめだよ」――岡村さんが幼い頃から祖父母に言われ続けてきたというこの言葉、取材の間ずっと頭に残っていました。岡村さんの「利他の心」は、こうした良い習慣の積み重ねからきているんだなと感じます。
その姿勢は、他人だけでなく一番身近な夫にも向いています。俳優の夫を支えるために独立を決めたというエピソードがカッコいい!大切な人の夢を本気で応援する漢気を感じました。
(記事制作:ひとひら企画/インタビュアー:渡辺まりこ、人生の軌跡グラフ制作:Emodea・相場綾香)
※掲載情報は2026年7月現在のものです。最新情報は公式サイト等をご確認ください。
