【学習塾経営|石川恵理】ヤングケアラ―、原因不明の病、がん宣告を越えて。「愛と数字」の塾経営とは
栃木県で個別指導型塾「one by one」を経営する石川恵理さん。16年間、生徒のほとんどを第一志望合格に導いてきました。ただ点数を上げるだけでなく、「自走できる子」を育てること。それが石川さんの信念です。生徒からは「第二のお母さん」と慕われています。
しかし、その歩みは平坦ではありませんでした。高校3年生のときに母が病気になり、看病と家事を担うヤングケアラ―に。自身も原因不明の病に倒れ、体が動かなくなってしまいます。さらに39歳のときには、がんの宣告まで受けました。どん底の病室で出会ったのが、北原孝彦さんのインスタライブです。
北原孝彦アカデミ―(※)(以下、アカデミ―)で学びながら、「愛だけじゃなく、数字も必要」と経営を立て直してきた石川さん。子どもも講師も幸せになる「三方よし」を目指す道のりを聞きました。
※北原孝彦アカデミー:UBM(ビジネス行動管理大学)の学びをベースにしながら、北原孝彦のより近くで学ぶ区画。北原氏が直接指導にあたる。メンバーは経営スキルだけでなく、人としての在り方を学ぶ。
勉強を教えるだけじゃない。「自走できる子」を育てる塾


――石川さんが経営している個別指導型塾「one by one」について教えてください。
栃木県佐野市にある、小中高生向けの学習塾です。対面とオンラインで個別指導を行っています。おかげで、ほとんどの生徒が第一志望に合格してくれました。学力向上はもちろん、「自走できる子」を育てることに注力しています。

――「自走できる子」とは?
自立して行動できる人間ですね。子どもの人生は、卒業した後もずっと続きます。社会に出れば、やりぬく力や、失敗を恐れず挑戦する力も必要ですよね。点数や志望校合格はもちろん大切ですし、成績の上げ方も教えます。ただ、それと一緒に、自走できる力も育てていきたいんです。
――自走できる力は、どのように育てるんですか?
例えば「自分は勉強ができない」と思っている子には、今より少しだけ難しい課題を渡します。そこで適切なタイミングで「難しいけどできるよ」と声をかけると、「自分もできる」と思い始める。
自転車の補助輪と同じで、支えながら、その子のタイミングで手を放していくんです。そうして自立できれば、社会に出ても自走できる人間になれると思います。

――実際の生徒さんの変化を教えてください。
物事に積極的になる子が多いです。「無理だ」とあきらめていたことに手をつけるようになるし、できなくても「こうしたらできるかも」と想像力や行動力が高まります。ある子は、初めて会ったとき「漢字が大嫌い、もう無理」と言っていたのに、学ぶうちに自信がついて、テストで100点を取ったんですよ。

――塾はどのような雰囲気ですか?
「みんな親切で楽しい」と生徒から言われます。自分で言うのも何ですが、雰囲気が良いんですよ。例えば、うちの塾には消しゴムのかすが落ちていない。靴もちゃんと揃っています。次の人のことを考えて、みんなが片づける習慣ができているんです。

――それも指導するからですか?
いえ、指導はしていないんです。自然とそうなりました。「良い習慣が合格や学力向上につながる」という私の想いを、開校時の生徒たちが実践してくれて。その姿を見た下の子たちが「お兄さんお姉さん、かっこいいよね」と真似ていく。そうして16年間、良い習慣が引き継がれてきたんです。
――16年間ですか…!
はい、気づいたら16年も(笑)。昔うちに通っていた生徒が、結婚してお母さんになり、その子どもがまた通ってくれている。そんな親子もいるんですよ。
それだけ長く見ていると、責任を感じますね。頼ってきてくれた子の人生の責任までは取れないけれど、「今さえ良ければいい」とは思えません。だから、いいことばかり言わないし、ごますりもしない。私は、生徒をお客さんにしないんです。そのせいか、「第二のお母さん」と言われます。塾なのに、まるで家に帰ってきた感覚になるようで。

音楽への夢、反抗期、母の看病、そして自分の病気。もがき続けた学生時代
――石川さんはもともと教師を目指していましたか?
いえ、小さい頃は人を笑顔にする仕事に憧れていました。アニメの声優さん、パントマイムのパフォーマーなど。ピアニストにもなりたかったです。
――ピアニストですか。
そうです。だから音楽の高校に行きたかったんですが、母に「音楽なんかで食べていけない」と反対されて、普通科へ。せめてと音楽部で曲を書いていたら、今度は先生に「そんなことより勉強しなさい」と。そこから私の反抗人生が始まりました(笑)。親も先生も、大人みんなに反抗して。今思えば、自分にイライラしていたんでしょうね。その反抗期も、ある出来事をきっかけに終わるんですけど。
――何かあったのでしょうか?
母の病気です。ちょうど石川県の大学に進む直前に分かり、半年通った後に栃木に戻ることにしました。
そこから「死」や「人生」について考えるようになりました。「このまま中途半端な人生はかっこ悪いな」と思えてきて。それで、母や祖母の世話をしながら、大学を受け直すことに決めました。いわゆるヤングケアラーですね。
――具体的には、どんな毎日だったんでしょうか。
料理や掃除、洗濯などの家事をこなし、少し離れて住む祖母の通院にも付き添っていました。でも一番辛かったのは、家族が苦しむ姿を見続けることですね。それを思えば、勉強の大変さなんて何てことなかったです。
受験は独学でしたが、東京の大学に合格。ただ、栃木の実家から通いながら母の看病や弟、祖母の世話も続けていたので、無理がたたったんでしょうね。今度は私自身が倒れて、動けなくなりました。

――そんなに悪かったんですか。
はい、体が信じられないほどだるくて、皮膚が常に痛くて、光に当たるのもダメなんです。トイレに這って行くような状態でした。たくさん病院に行ったのに、なかなか診断名がつかなくて。後に、「慢性疲労症候群」だったと分かるんですけどね。大学の教授が大きな病院を紹介してくださり、少しずつ回復し、無事に卒業できました。
――大学卒業後は何をしていましたか?
就職氷河期に、なんとか内定を勝ち取ったんです。しかし、まだ体調が悪くて働けませんでした。症状は見た目では分からないので、周りにも理解してもらえなくて。「少し休めば元気になるんじゃない?」と。人生で一、二を争う辛い時期でしたね。
「子どもファーストの塾を作りたい」。生徒ゼロから始めた塾の原点

――塾の仕事はいつから始めたのでしょうか。
もともと4つ下の弟やその友達に勉強を教えていて、教えるのが好きだったんです。大学時代には塾でアルバイトも。点数を上げるのも、信頼関係を築くのも得意でした。卒業後、体調が戻った頃にまた塾で働き始めて、そのうち「子どもファーストの塾を作りたい」と、開校を決意しました。
――「子どもファースト」とは?
時間やお金の都合よりも、その子に必要かどうかを優先する、ということです。塾のサ―ビスは「何分で何円」なので、時間ぴったりに「はい、終わり」になりがちですよね。でも、時間がきても、あと1問だけ一緒に解く。そのひと手間で、その子が家で復習しやすくなることもあるんです。

――開校して、まず何から始めたのでしょうか。
チラシ配りです。何しろ、最初は生徒ゼロですから(笑)。前の塾から生徒を引き抜きたくなかったので、誰にも言わずひっそり開校して。でも、どこからか聞きつけた元生徒や卒業生が手伝ってくれて、1枚1枚、一緒に配りましたね。おかげで生徒は少しずつ増えて、集客に困ることはなかったです。
――大変だったことはありますか?
「子どもファースト」で深く入り込むぶん、保護者との距離が近くて、悩むこともありました。あるお母さんとの出来事です。成績が上がった子が、中3で宿題をしなくなり、点数が下がって。お母さんは「塾にいくら費用をかけていると思っているんだ」と激怒しました。でも、その子自身が「先生の言った通りにしていれば」と私をかばってくれたんです。そうしたら今度は、お母さんが「先生がわが子を洗脳している」と言い出して…。
――それで、どうしたんですか。
その子は塾を辞めました。でもその後、「最近様子がおかしい」と同じ学校の子から聞いて。今度は私が守る番だと思い、お母さんの前で土下座したんです。「絶対に合格させます、だから戻ってきてください」と。そして塾に戻ってもらい、その子は無事志望校に合格しました。
数年後、その子は就職して、「初任給で先生にご飯を食べさせたい」と言ってくれました。感無量ですよね。お母さんも後になり、「弟まで一緒に塾を辞めさせたことだけは、今も後悔している」と話していたそうです。
――なぜそこまで子どもたちがかばってくれるんでしょうか?
子どものことを、私が誰よりも信じているからだと思います。親御さんは、途中でわが子を信じられなくなることがあるんです。「うちの子大丈夫ですかね」と。でも私は信じているし、口だけにしない。「一緒に頑張ろう」と、実際に一緒に勉強する。それが子どもにも伝わっているんだと思います。


39歳のがん宣告。それでも塾が潰れなかった理由
――塾の経営は順調でしたか?
そうですね、それなりに順調でした。でも39歳のときに人生がガラッと変わりました。
――何が起きたのでしょうか。
胸に違和感があり病院に行ったら、「乳がんの疑いです」と。何回か細胞診をして、画像を見せられて、「あなたは乳がんです。今日は一人で来たんですか」と言われたんです。もう、頭が真っ白で。子どものことも塾のこともあるし、ショックすぎて……あの日どう寝たのかも覚えていないです。
――塾は続けられたのですか?
当時はほとんど一人で経営していたので、私が抜けたら回りません。急に人は集まらないし、信頼できる人じゃないと子どもたちを任せられない。そんなときに、生徒たちが塾をつないでくれたんですよ。
――つないでくれた?
はい。東京と地元の元生徒が二人、講師として来てくれて。専門学校で教えていたときの先生も手伝ってくれました。おかげで私は3カ月ほどお休みできました。彼らがいなかったら、潰れていましたね。

――その3カ月間は治療に専念していたんですか。
それが、コロナ禍ですぐには手術ができなくて。何回も細胞診を重ねるなか、一人のドクタ―だけが「乳がんじゃないかも」と。でも、遺伝子検査(2023年9月より、条件を満たせば保険適用)だったので、希望を持っていいのかも分からないまま過ごしていました。
――その間、何を考えていましたか?
時間は、本当に命なんだと意識が変わりましたね。今までは、どっちでもいいことに無理して時間を使うこともあったんです。でも、生徒と過ごす時間も、ただ流さず、一つひとつに意味を持たせるようになりました。私はたまたま運が良かっただけ。誰にも、後悔してほしくないんです。
病室で見た北原さんのライブから、すべてが動き出した

――北原さんとの出会いは、いつだったんですか。
入院中の病室でした。手術前は不安でいっぱいで、楽しいテレビなんて見られないんですよ。そんなときに、たまたま北原さんのインスタライブが流れてきて。存在は知っていましたが、ちゃんと話を聞いたのは初めてでした。
――聞いてみて、どうでしたか?
とても熱量のある話で、「教育に通ずるものがあるな」と思ったんです。もしがんじゃなかったら。無事に手術が終わったら。北原さんに会いに行きたい、と思いました。
結果、乳がんではありませんでした。
――良かったですね……!
それが、素直には喜べなかったんです。がんセンタ―の大部屋で、私より若くて、もっと重い症状の方と一緒だったんですよ。「なんで私ばっかりこんな思いを」「この子はどうするの」と、お子さんの写真を持って泣いていて。その方を思うと、自分だけ「良かった」なんて気持ちにはなれませんでした。だから「がんじゃなかったらやりたい」と思っていたことを、全部取り組もうと。その一つが、北原さんに会いに行くことでした。
――実際に北原さんに会いに行きましたか?
はい。39歳の冬に、長野合宿のお知らせを見つけて。講義や壁打ちで厳しいことも言われましたが、腑に落ちるものがあり、その後UBM(※)に入会しました。
※UBM(ビジネス行動管理大学):北原孝彦が代表を務めるビジネス塾。2020年に「北原の精神と時の部屋」として設立、2024年11月に現名称に改称。
――どんなことが腑に落ちましたか?
一番大きかったのは、「一人で抱え込まなくていいんだ」ということです。それまでは保護者と関わることは多くても、同じ事業主と話す機会はほとんどなくて。皆さんと話すと、共感できることばかり。辛いことを口にせず、何でも自分一人で対処してきましたが、たまには言ってもいいんだと。しかも愚痴で終わらず、「こうしてみたら」とヒントをもらえる。そんな仲間ができたのが、一番の発見でした。


――事業のヒントでしょうか。
それまでは毎年、1年を終えるのに必死で。受験が終わると1週間は歩けないほど、再現性がなかったんです。でも生徒たちは「帰る場所があるのが嬉しい」と言ってくれる。その場所を1年でも長く続けるには、愛情だけじゃなく、数字の設計も必要だと痛感しました。UBMでそれを学んで、塾を続けていける可能性は確実に高まりました。
一人で抱える塾から「三方よし」の塾へ
――石川さんは、北原さんのYouTubeに二度出演していますよね。
はい、どちらもアカデミ―(※)入会後です。入会は2025年の夏。YouTubeにお声掛けいただいたときは「どんな場所だろう」程度の軽い気持ちだったのに、いざ面談となったら「どうしよう、私には荷が重いかも」と(笑)。
――実際に入会して、何が変わりましたか?
北原さんと壁打ちをするようになり、自分では気づけないことを教えてもらえるんです。一番大きかったのは、「やりたいことと、やれることをやってしまっている」という気づき。生徒の点数を上げるのは大切な仕事ですが、私はそこに没頭するあまり、本当に取り組むべき経営のことを後回しにしていたんですよね。
――本当に取り組むべきこと、ですか。
そうなんです。これは、生徒にも同じことが言えるんですよ。目についた問題ばかり解いても、土台を作らなければ点数は伸びない。でも、自分ではなかなか気づけない。先生でも生徒でも、同じなんです。
私にとって北原さんは、「石川さん、こっちだよ」と照らしてくれる存在なんです。


※リトリート:仕事や日常から離れて、静かな場所で数日間過ごし、心身をリフレッシュさせる旅のこと。北原孝彦アカデミーでは、熱海・長野・仙台・大阪・福岡など年数回のリトリートを行っている。
――では、石川さんが取り組むべきことは何だったんですか?
「教える人」へのコンサルティングに、いよいよ力を入れ始めました。実は以前から、塾の先生だけじゃなくて、音楽やハ―プ、英会話の先生といった、物事を教える人からの相談を受けていたんです。北原さんにも「そこに力を入れてください」と言われています。
――コンサルティングでは、どんなことを。
単に「集客、集客」じゃなくて、一人の生徒にどう向き合うか、ですね。生徒が望む未来を、先生としてどう叶えるか。その方法を「教える人」と私で一緒に考えていくんです。

――塾の方でも、新しく始めたことがあるそうですね。
北原さんのアドバイスを受けて、Zoomを活用した新しい仕組みを作っています。子どもの状況に合わせて、気軽に参加できる無料の勉強会から、講師がしっかり伴走するプランまで、段階を分けているんです。どんな子にも「ここにいていいんだ」と思える居場所を作りたくて。

――その仕組みには、どんな狙いがあるんですか?
私が目指しているのは「三方よし」です。より多くの子どもを救えて、講師も専門性を活かして安定して働けて、塾も続いていく。生徒も講師も塾も、みんなが幸せになる仕組みにしたいんです。
――親御さんに向けたサポ―トもあると聞きました。
はい。「勉強を親子の戦いにしない」ことを大切にしていて、毎月、親御さん向けの勉強会も行っています。子どもへの声かけや家庭環境の整え方をお伝えして、親子の関係が良くなればと思っています。
――最後に、これから目指す未来を教えてください。
卒業した後も、自分の望む未来を描いて、それを叶えられる力をつけていく。そんな塾でありたいです。
そして、子どもたちが独りぼっちにならない場所であり続けたい。私自身、辛いときに一人で抱え込んできたからこそ、その大切さが分かるんです。でも、私一人では続けられません。だから、子どもも親も講師も一緒に、この場所を守っていきたいです。
取材を終えて
ヤングケアラー、原因不明の病、がん宣告。数々の困難を乗り越えてきた石川さんのなかにあるのは、強さと、揺るがない愛と信念でした。生徒一人ひとりを、口だけじゃなく本気で信じて向き合ってきた。だからこそ、「第二のお母さん」と呼ばれているんだと思います(これ以上の褒め言葉、なかなかないですよね……!)
信頼されるということは、目の前の人に向き合い続けた先にしかないんだなと、石川さんを見ていて感じました。誰かにとっての「帰る場所」であり続けること。それがどれだけ尊いことか、教えてもらった取材でした。
(記事制作:ひとひら企画/インタビュア―:渡辺まりこ、人生の軌跡グラフ制作:Emodea・相場綾香)
※掲載情報は2026年7月現在のものです。最新情報は公式サイト等をご確認ください。

